新撰組と筑波山挙兵

水戸史学会副会長 久野勝弥

 文久3年(1863)、14代将軍家茂は孝明天皇への挨拶のために京都に向かった。家茂に従った一団に前年不平浪人を懐柔するために組織された一団があった。京都に入って京都守護職松平容保の配下となり新撰組と称した。
 水戸藩主徳川慶篤も家茂に従って上洛した。従者の一人に藤田小四郎がいた。幕府は十年以内に攘夷を実行すると公布したが一行に実行する気配がない。藤田小四郎は京都において、攘夷の実行が国家の将来のためだと考え、元治元年筑波山に挙兵する。
 新撰組も筑波山の挙兵も悲劇に終るが、その歴史的意義は雲泥の差がある。
 新撰組が幕藩体制の枠組みの中で、大成の維持と保身を計ったのに対し、波山勢は幕藩体制の枠組みを超えて新しい政治の体制を考えていた。その旗印は攘夷の実効をバネとした尊王による国家統一であった。
 (藤田小四郎は慶応元年2月4日越前国敦賀において斬罪となる(享年24歳)大人命は護国神社の御祭神として合祀されております。この原稿が命の慰霊となれば幸いです。)
久野 勝弥

霞ヶ浦から望む筑波山

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